東電福島第一原発事故を振り返る

福島の今とエネルギーの未来

2011年3月11日に発生した東日本大震災とそれに続く東電福島第一原発事故から9年が経過した。しかし、まだ事故は継続している。

原発事故の被害は多岐にわたり複雑だ。広範囲にわたる放射能汚染により、自然のめぐみとともにあった人々の暮らしは失われ、様がわりしてしまった地域も多い。

原発事故は多くのものを奪った。「生業」、「生きがい」、「友人と過ごすかけがえのない時間」、「平穏な日常」…。いわば、人が人として生きてきた基盤が失われてしまったのだ。家族やコミュニティの分断、健康や人生に対する不安が生じ、「復興」「オリンピック」のかけ声のもとに、放射能汚染の実態や、健康被害や不安を口にだせない空気が醸成されている。

一方、避難指示はどんどん解除され、また、避難者向けの住宅提供などの支援も打ち切られている。2020年3月には、帰還困難区域からの避難者向けの住宅提供も終了する。しかし、旧避難指示区域で居住率は3割弱にとどまっている状況だ。

ここでは、原発事故当時の状況を、とくにFoE Japanが取り組んできた避難政策を中心に振り返る。

事故の進展と避難指示

原発事故が起こった2011年3月11日の夜、20時50分に1号機の半径3kmの住民に避難命令を出された。翌12日15時36分、1号炉建屋が水素爆発。同日の18時25分、20km圏内の住民に対して避難指示が出され、14日11時には3号機建屋が水素爆発。3月15日には2号機の格納容器が破損、また4号機が水素爆発を起こした。

この日、放射性物質を大量に含んだ放射性雲(プルーム)が広い範囲に流れた。プルームは飯館村や伊達市、福島市、郡山市の上空を通過し、雨や雪により降下した放射性物質が土に沈着。長く続く汚染をもたらした。

各地の放射線量はこれにより急上昇した。原発から60km 離れた福島市ではこの日の夕方、最大で毎時24マイクロシーベルトが観測された。これは、福島原発事故後に新設された原子力規制委員会が策定した「原子力災害対策指針」で、「一週間以内に一時移転を実施」とされるレベル(毎時20マイクロシーベルト)を上回るレベルだ。

にもかかわらず、福島市、伊達市、二本松市、郡山市といった福島県中通り地域に避難指示が出されることはなかった。

4月22日、ようやく政府は、20km圏内を「警戒区域」に、おおよそ30km圏内を「緊急時避難準備区域」に、飯館村、川俣町の一部、南相馬市の一部、葛尾村など年間20ミリシーベルトに達する可能性のある地域を「計画的避難区域」に指定した。

年20ミリシーベルト撤回運動

20 ミリシーベルト基準の撤回を求める市民たち

FoE Japanは2011年4月から、福島の中通りの父母ら、また「福島老朽原発を考える会」などの市民団体とともに、年20ミリシーベルト基準撤回運動や区域外避難者に対する賠償を求めて活動を行ってきた。

3月下旬から4月上旬には、福島市の父母たちが線量計を使って学校の測定を行い、大半の学校が放射線管理区域以上の値を示していることを明らかにした。

市民たちは、始業式を遅らせることを要求したが、これは聞き入れられずに始業式が強行された。その後、学校の利用目安として年20ミリシーベルトが文部科学省から各教育委員会に通知された。5月23日、怒った父母たちや市民たちが文部科学省を包囲し撤回を迫った。メディアがこれを大きく報道した結果、文部科学省は、「長期的には1ミリシーベルトを目指す」と通知を出した。

「避難の権利」確立を求めて

区域外避難者は、子どもや家族を守るため、賠償も支援もなく避難を決断した人が多い。中には、経済的事情、仕事、家族の事情のため、避難したくても避難できない人もいた。FoE Japanは避難指示区域外からの避難者(いわゆる自主避難者)の賠償を求め、各地で、「避難の権利」を求める集会を開催。避難者の声を集め、政府の審議会に運んだ。また福島での汚染状況調査やアンケート調査を実施した。

自主避難に関するアンケート結果(2011年7月25日)


出典:FoE Japan、福島老朽原発を考え る会が 2011 年 7 月、インターネット上 で実施したアンケート調査より(回答数:272)

これらの運動が実り、避難者の審議会での発言が実現した。避難者を援護する世論の高まりを背景にして、2011年12月、区域外避難者の「避難の合理性」が認められ、限定的かつ少額ではあるが、賠償が実現した。

また、とりわけ線量が高かった地区の住民とともに、「選択的避難区域」(避難を選択した人に賠償を認める区域)の設定を求め、政府に働きかけたが、実現しなかった。

「人間なき復興」

原発事故当初から今にいたるまで、政府および福島県の対応は、避難者を最小限にとどめ、産業を守り、「風評被害」の名のもとに被ばく防護政策を怠り、「福島」という器だけを守ってきたように思える。

そのかげで、避難者たちは経済的にも社会的にもおいつめられている。「避難の協同センター」などの民間団体には、避難者の生活困窮と孤立、精神的な苦しみを物語る避難者からのSOSが届いている。しかし国は、実情の把握をせぬまま、避難者に対する支援を次々に打ち切っている。

莫大な復興予算も、福島各地の「減容化」施設(放射性ごみの焼却施設)や道路や産業団地などの「ハコモノ」に流れ、個々人の生活の回復のためにどの程度使われたのかは疑わしい。これらの状況は「人間なき復興」ではないだろうか。

原発事故後、9年が経過したいま、改めてこれらの状況を検証し、真の「人間の復興」を追求すべき時がきている。

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